浅草 都鳥MIYAKODORI · ASAKUSA

都鳥の女将が見てきた浅草生い立ち・半玉の日々・女将の今

女将の歩み

浅草に生まれてから、半玉と芸者の日々、女将になってからまでを、三つに分けています。

  1. 1浅草に生まれて女将はどんな家に生まれ、どうやって芸者になったのか。くわしく
  2. 2半玉と芸者の日々女将は、半玉と芸者の頃をどう過ごしてきたのか。くわしく
  3. 3女将になってから女将は、なぜ芸者をやめて女将になり、今何を大事にしているのか。くわしく
障子の前で、女将が芸者の袖を整えている。
女将が芸者の袖を整える(浅草 都鳥・2026年9月)。

都鳥の女将は浅草で生まれ育ち、1969 年に 15 歳で半玉として芸者になりました。芸者として 27 年を過ごし、今は都鳥の女将です。子どもの頃のお稽古から、半玉の一日、忙しかったお座敷、女将になってからのことまで、女将本人と三代目、慶さんの証言から記録しています。

11 項目 12 語 最終更新 2026-10-24

この資料室は、浅草で 1950 年から続く待合茶屋(芸者衆を呼んでお座敷遊びをする店)の都鳥が、浅草で直接聞いた話(証言)を大切にしてまとめています。人や時代によって覚え方の違う話もあり、書いてあることが必ずしも正しいとは限りません。違うところに気づいた時は、「知りたいことを送る」から教えてください。確かめて直していきます。

01浅草に生まれて

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01女将は浅草で生まれ育ち、母は芸者だった

子どもの頃から、芸者衆のいる世界が当たり前でした。

都鳥の女将は、浅草で生まれ、浅草で育ちました。母は芸者でした。女将は、浅草の外に出たことがなかったので、子どもの頃から芸者さんの世界が当たり前だったと話しています。

三代目によると、女将の祖父は新派の役者でした。新派は、1880 年代に、歌舞伎に対する新しい芝居として生まれた演劇です。祖母は芸者ではありませんでしたが、芸事がとても好きな人でした。

浅草見番で箱屋として働いた慶さんは、女将が小学生の頃から知っています。「可愛い小学生がいた。それが芸者さんになっちゃった」と振り返っています。

証言都鳥の女将証言三代目 河村悠太証言慶さん(元箱屋・東京浅草組合 元事務長)

02お稽古は、数えで 6 つの 6 月 6 日に始めた

この日に始めると飽きずに上手くなる、という言い伝えに従いました。

昔から、数えで 6 つの 6 月 6 日にお稽古を始めると、飽きないし上手くなると言われていました。今の数え方では 5 歳です。女将もこの年に、祖母に手を引かれて、踊りと清元(きよもと)のお稽古に通いはじめました。鼓や太鼓のお稽古は、小学 2 年生の頃からです。

半玉になると、日本舞踊、鼓や太鼓などの鳴り物、茶道の 3 つは欠かせないお稽古でした。女将はそのほかに、長唄の三味線、清元、小唄も習いました。お稽古事は 5 つか 6 つあり、ほとんど毎日がお稽古だったそうです。

証言都鳥の女将

03中学を出てすぐ見習いになり、15 歳で半玉に出た

女将は、芸者になるまでの見習いの頃がいちばん辛かったと話しています。

女将は中学を卒業してすぐ、花柳界に入りました。3 か月か 4 か月ほど見習いをして、1969 年(昭和 44 年)、15 歳で半玉として芸者になりました。見習いの期間は人によって違い、今は半年から 1 年ほどが多いとされます。

女将は、長い芸者の暮らしのなかで、いちばん辛かったのはこの見習いの頃だと話しています。学校を出たばかりで、世間のことも何も分かりませんでした。浅草で生まれていても、お酒の席に出たことはなく、とても神経を使ったそうです。

女将が半玉に出た頃の浅草の店と芸者衆の数は、浅草花街の記録にまとめています。

証言都鳥の女将

02半玉と芸者の日々

04半玉の一日は、朝のお稽古から夕方のお座敷まで

10 時ごろからお稽古に回り、夕方には日本髪を整えて仕事に出ました。

半玉の頃の女将は、朝ご飯を食べて身支度をし、着物を着て出かけました。お稽古は 10 時ごろからあり、踊り、お囃子、長唄などを、一日に 3 つほど回ったそうです。

帰ると少し早めの夕飯をとり、日本髪の支度をします。夕方の 5 時、6 時からは、もう仕事に出ていました。

三代目によると、女将は、大変な時期もあったものの、半玉の頃はとても楽しかったと話しています。お座敷が終わると、半玉どうしで銭湯へ行き、ご飯を食べたそうです。

証言都鳥の女将証言三代目 河村悠太

05半玉を 3 年半つとめて一本になり、15 歳から芸者を 27 年続けた

主に日本舞踊で、歌舞伎座や国立劇場、明治座の舞台にも立ちました。

女将は半玉を 3 年半つとめたあと、一本披露目(いっぽんひろめ)をして一本になりました。一本は一人前の芸者で、半玉も一本も芸者です。半玉に出た 15 歳から数えて、女将は 27 年間、芸者を続けました。

三代目によると、女将は芸者の頃、日本舞踊の会などで何度か、建て替えの前と後の歌舞伎座、国立劇場の大劇場と小劇場、明治座の舞台に、主に日本舞踊で出ています。浅草の踊りは花柳流が中心で、女将は花柳流の師範代の免許を持っています。

証言都鳥の女将証言三代目 河村悠太

06女将が芸者に出た頃は、花柳界がいちばん忙しい時代だった

一つのお座敷に 10 分、30 分しかいられないほどでした。

女将は、1969 年ごろの浅草を「花柳界の戦後の全盛時代」と話しています。「よくバブルの頃はすごかったって言うけど、あんなもんじゃなかった」とも振り返ります。

三代目によると、女将は一つのお座敷に 30 分、10 分しかいられず、顔だけ出して次のお座敷へ回ったそうです。女将は「一番いい時代を芸者で経験させてもらった」と話しています。この頃の浅草の忙しさは、浅草花街の記録にも書いています。

証言都鳥の女将証言三代目 河村悠太

07「お客様に私は育ててもらった」

女将が若い頃は、お客様が半玉と遊び、いろいろなことを教えてくれました。

女将が若い頃は、お客様が遊んでくださったと話しています。夜の 9 時、10 時にお座敷が終わると、「何か食えよ」と半玉だけを 3、4 人呼んで、好きな物を食べさせてくれるお客様がいました。週に 1 回ほど来てくれて、わいわいと過ごす、息抜きのお座敷だったそうです。麻雀や花札も、お座敷でお客様から教わりました。

昔のお座敷には、大きな会社や名の知れた会社の上の方が多く来ていました。女将は、ふつうなら会えない方に会えるのは、とても幸せなことだったと話しています。ここ 10 年、20 年は、接待などの、みんなが緊張するお座敷が多くなったそうです。

三代目は、女将の言葉でいちばん心に残っているのは「お客様に私は育ててもらった」だと話しています。芸に打ち込んでこられたのは、お客様が応援し、評価してくれたからだ、という意味です。

証言都鳥の女将証言三代目 河村悠太

08上手いお姉さんに追いつきたい一心で、お稽古を続けた

慶さんは、女将は芸者の頃から別格だったと話しています。

女将は、踊りをはじめ、辛くないお稽古はないと話しています。それでも、お客様にお見せし、お客様の前で披露するのだから、プロとまでは言えなくても、プロのつもりで、きちんと上手くなりたいと考えていました。浅草にも、よその土地にも、上手いお姉さんがいました。早くそういうお姉さんに追いつきたいという思いがあったから、辛いお稽古も続けられたそうです。

慶さんは、箱屋から見ると芸者衆はみな上の人で、女将はその中でも、若い頃から別格だったと話しています。女将になってからではなく、芸者の頃からそうだったといいます。

証言都鳥の女将証言慶さん(元箱屋・東京浅草組合 元事務長)

03女将になってから

09浅草では芸者と女将を兼ねられない。だから芸者をやめて女将になった

呼ばれる立場から呼ぶ立場に変わり、はじめはとても戸惑ったそうです。

女将は、浅草では芸者と女将を一緒にはできないので、芸者をやめて都鳥の女将になったと話しています。女将は都鳥の二代目で、都鳥という屋号を付けたのは先代です。

芸者の頃は呼ばれる立場でしたが、女将になると芸者衆を呼ぶ立場になりました。その頃はまだ年上のお姉さんが多く、遠慮も気遣いもあって大変だったといいます。女将は、慣れなくてはいけないという思いしかなかったと振り返っています。

浅草で、芸者をつとめた経験のある女将は、今は都鳥の女将だけです。

証言都鳥の女将証言三代目 河村悠太

10女将が大事にしているのは、お客様に楽しんで帰っていただくことと、芸

女将は「芸者から芸を取ったらただのもの」と話しています。

三代目によると、女将が今も大事にしていることは二つです。一つはお客様に楽しんで帰っていただくこと、もう一つは「芸者は芸が全て」ということです。女将は「芸があるから芸者が成り立つ。芸があるから芸者は芸者でいられる」と話しています。

女将自身は、今もできているかといえば、まだまだだと話しています。「英語とこういうお仕事もやっぱり一生修行かなって、お勉強かなって思います」。

証言三代目 河村悠太証言都鳥の女将

11女将は、一見さんお断りをやめたことを「敷居を削った」と言う

誰でも芸者衆と遊べるお座敷にしたことを、女将はこの言葉で話しています。

三代目によると、都鳥は一見さんお断りをやめ、紹介がなくても誰でも遊べるようにしました。女将はこのことを「敷居を削った」と言います。扉を開いた店になったことを女将は嬉しく思う一方で、「開いたからこそ、しっかりと歩んで道を作っていかなければいけない」という責任も感じているそうです。

三代目は、女将が昔の花柳界の話をよくすること、それが寂しそうに見えることもあったと話しています。花柳界は今も減り続けていて、東京は特にそれが目立ちます。三代目は、女将が都鳥にいる今だからできることがあると考え、都鳥に加わりました。女将が芸者として見てきた浅草のお座敷は、今も都鳥で続いています。

証言三代目 河村悠太

このページの用語

見習い(みならい)
芸者になる前の修行の期間。女将の場合は 3 か月か 4 か月だった。
半玉(はんぎょく)
修行中の若い芸者。半玉も芸者。
一本(いっぽん)
一人前の芸者。
一本披露目(いっぽんひろめ)
半玉から一本になる時のお披露目。
鳴り物(なりもの)
鼓や太鼓など、打って鳴らす楽器。
長唄(ながうた)
江戸時代の三味線の音楽。
清元(きよもと)
江戸時代の後期にできた、三味線で語る音楽の流派。
小唄(こうた)
お座敷で歌う、短い三味線の歌。
花柳流(はなやぎりゅう)
日本舞踊の流派の一つ。浅草の花街の踊りの中心。
師範代(しはんだい)
流派から、踊りを教える資格を認められた人。
新派(しんぱ)
明治に生まれた日本の芝居。歌舞伎に対する新しい芝居としてこう呼ばれた。
一見さんお断り(いちげんさんおことわり)
紹介のないはじめてのお客様を受けないこと。都鳥はこれをやめた。

このページの出典

  • 証言:都鳥の女将 取材の映像(2025年11月・12月、2026年5月)
  • 証言:慶さん(元箱屋・東京浅草組合 元事務長)取材の映像(2026年5月 受領)
  • 証言:三代目 河村悠太(都鳥・2026年4〜8月)

女将が見てきたお座敷を、今に

都鳥の女将は、浅草で生まれ、15 歳で半玉に出て、芸者として 27 年を過ごしました。花柳界がいちばん忙しかった頃を知り、今は女将として芸者衆を呼ぶ側にいます。浅草の芸者衆は減りましたが、女将が大事にしてきた芸とお座敷は、今も都鳥で続いています。

更新の記録 2026-10-24 11 項目で公開

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