浅草 都鳥MIYAKODORI · ASAKUSA

花柳界の年表江戸の吉原・深川から今の浅草まで

江戸から今まで

芸者の文化は江戸に生まれ、町が焼けるたびに立ち直りながら、今の浅草まで続いてきました。

  1. 江戸17 世紀の後半、江戸の太平の世に芸者の文化が生まれた
  2. 江戸1617 年に吉原が許され、1657 年に浅草の裏手へ移った
  3. 江戸1779 年、吉原に芸者の名札を掛ける「見板」ができた
  4. 江戸江戸の終わりの天保の改革で、芝居町が浅草へ移り、深川の芸者は柳橋へ移った
  5. 明治〜戦前明治 5 年(1872)から、東京では芸者と娼妓が法で分けられた
  6. 明治〜戦前明治の中ごろに浅草公園芸者が生まれ、明治 29 年(1896)に公園見番ができた
  7. 明治〜戦前大正 12 年(1923)、関東大震災で焼けた浅草の花街は、その年の暮れに出直した
  8. 明治〜戦前昭和 19 年(1944)、戦争で花柳界は営業を止められた
  9. 戦後〜今昭和 25 年(1950)、浅草の芸者衆の踊りの会「浅茅会」が始まった
  10. 戦後〜今昭和 33 年(1958)、売春防止法の実施で、遊郭としての吉原が終わった
  11. 戦後〜今昭和 40 年代、浅草の芸者衆はとても忙しかった
  12. 戦後〜今今(2026 年)の浅草の芸者衆は約 20 名。幇間は 6 名が見番に登録している
提灯が並ぶ浅草見番(東京浅草組合)の建物の正面。
浅草見番(東京浅草組合)。明治 29 年(1896)にできた公園見番が、今の組合につながっている。

芸者は江戸のいつごろ生まれ、吉原や深川、浅草の町とどうかかわりながら今に続いてきたのか。江戸から今までの花柳界の出来事を、時代の順に並べました。三代目の証言と、花柳界の本の記述から記録しています。

12 項目 12 語 最終更新 2026-10-24

この資料室は、浅草で 1950 年から続く待合茶屋(芸者衆を呼んでお座敷遊びをする店)の都鳥が、浅草で直接聞いた話(証言)を大切にしてまとめています。人や時代によって覚え方の違う話もあり、書いてあることが必ずしも正しいとは限りません。違うところに気づいた時は、「知りたいことを送る」から教えてください。確かめて直していきます。

01江戸

↑ 年表の一覧は、このページのいちばん上にあります

0117 世紀の後半、江戸の太平の世に芸者の文化が生まれた

最初の芸者は男の芸人で、元禄のころには宴で踊る「踊子」も江戸で目立っていました。

三代目は、芸者という文化ができたのは 1600 年代の後半、戦国の世が終わって太平になった江戸の時代だと話しています。平和になって娯楽の文化が栄え、芸が磨かれていきました。ここでいう起こりには、男の芸者や、のちの芸者のもとになった踊子も含みます。

本にも、もとの芸者は男だったと書かれています。吉原では、宴の進行を助ける男の芸人を芸者と呼びました。別の本は、宴に呼ばれて踊る女の「踊子」を芸者の前身とし、元禄 2 年(1689)には踊子を禁じるお触れが出るほど目立っていたと書いています。

女の芸人がいつから「芸者」と呼ばれたかは、本によって書き方が違います。ある本は、踊子が「芸者」と呼ばれるようになったのは明和・安永のころとしています。

芸者の起こりの年は、資料によって書き方が違います。三代目の話は男の芸者や踊子まで含めた起こりで、本は「芸者」という呼び名が女の芸人に広がった時期を書いています。ここでは両方を並べています。

証言三代目 河村悠太本岩下尚史『花柳界の記憶 芸者論』(文春文庫・2009)本田中優子『芸者と遊び』(角川ソフィア文庫・2016)

021617 年に吉原が許され、1657 年に浅草の裏手へ移った

移った先の新吉原は遊郭で、浅草の芸者衆がいる観音裏の花街とは別の場所です。

本によると、吉原は元和 3 年(1617)、江戸でただ一つの公に認められた遊郭として許されました。はじめは今の人形町のあたりにありました。

明暦 3 年(1657)、吉原は浅草の裏手へ移り、新吉原と呼ばれるようになりました。移った訳は本によって違います。ある本は江戸の町が広がったため、別の本は明暦の大火がきっかけと書きます。もう一冊は、移ることは前の年の明暦 2 年(1656)に決まっていて、翌年の正月の大火はきっかけではないと書いています。移るのと引き換えに、夜の営業が許されました。

新吉原は遊女のいる遊郭です。浅草の芸者衆がいる観音裏の花街とは、別の場所、別の世界です。

本岩下尚史『花柳界の記憶 芸者論』(文春文庫・2009)本田中優子『芸者と遊び』(角川ソフィア文庫・2016)本安藤優一郎 監修『江戸の色町 遊女と吉原の歴史』

031779 年、吉原に芸者の名札を掛ける「見板」ができた

本は、これが東京の各地にある見番の始まりだと書いています。

本によると、安永 8 年(1779)、吉原の遊女屋の大黒屋が仲間と相談して、芸者を登録する所を作りました。登録した芸者の名札を掛けたので「見板」と呼ばれ、注文に応じて芸者をお座敷へ取り次ぎました。登録できたのは、遊女の仕事に踏み込まないと約束した芸者だけでした。

本は、これが江戸から今まで続く東京の各地の見番の始まりだと書いています。江戸時代に公に芸者と認められたのは、この見板に登録した吉原の芸者だけでした。ほかの町の芸者は、制度の上ではお酌をする「酌人」の扱いでした。

見番の始まりは、都鳥の女将の説明と本の記述が一致していません。ここでは本の説を書き、両方は「芸者と遊女の違い」に並べています。

本岩下尚史『花柳界の記憶 芸者論』(文春文庫・2009)

04江戸の終わりの天保の改革で、芝居町が浅草へ移り、深川の芸者は柳橋へ移った

浅草の猿若町には、芝居茶屋に生まれた「櫓下芸者」がいました。

本によると、天保の改革で江戸三座の芝居小屋が浅草へ移され、猿若町(さるわかまち)ができました。その芝居茶屋に生まれたのが「櫓下芸者(やぐらしたげいしゃ)」で、芸人や師匠に囲まれた芸達者ぞろいだったといいます。

同じ天保の取り払いで深川を出た芸者は、柳橋に移りました。柳橋は、吉原へ舟で向かうお客がまず立ち寄る、江戸の水路の要だったからだと本は書いています。

別の本は、天保の取り締まりのあと、吉原の外の町の芸者も色を売ることを禁じられ、芸者という名が建前どおりになったと書いています。浅草の芸者衆のもとになった三つの流れは、「浅草花街の記録」にまとめています。

本浅原須美『お座敷遊び』(光文社新書・2003)本岩下尚史『花柳界の記憶 芸者論』(文春文庫・2009)本田中優子『芸者と遊び』(角川ソフィア文庫・2016)

02明治から戦争の終わりまで

05明治 5 年(1872)から、東京では芸者と娼妓が法で分けられた

鑑札を受ければ、吉原の外の町の芸者も、公に芸者と認められるようになりました。

本によると、東京では明治 5 年から、芸者と娼妓(しょうぎ)がはっきり分けられ、芸者が色を売ることは法で禁じられました。同じ年の政令で、鑑札を受ければ吉原の芸者でなくても、芸者として認められるようになりました。

江戸時代に「酌人」の扱いだった深川・芳町・柳橋などの芸者も、これで正式な芸者になりました。著者は、芸者という呼び名は江戸生まれの東京育ちで、今も芸者の本場は東京だと書いています。

本岩下尚史『花柳界の記憶 芸者論』(文春文庫・2009)

06明治の中ごろに浅草公園芸者が生まれ、明治 29 年(1896)に公園見番ができた

明治の末に、浅草の花街は浅草公園から観音裏へ移りました。

本によると、明治の中ごろ、浅草寺の門前の田楽芸者をもとに、櫓下芸者や堀の芸者の一部が浅草公園のまわりに集まり、「浅草公園芸者」と名乗りました。明治 29 年(1896)には公園見番ができ、これが今の東京浅草組合につながります。

花街が浅草公園から今の観音裏へ移ったのは明治の末で、そのあと大きく栄えました。別の本は、浅草は敗戦後まで、東京でいちばん芸者の多い花街だったと書いています。

浅草公園芸者の始まりの年は、資料によって 1 年の違いがあり、確かめを続けています。

本浅原須美『お座敷遊び』(光文社新書・2003)本岩下尚史『花柳界の記憶 芸者論』(文春文庫・2009)

07大正 12 年(1923)、関東大震災で焼けた浅草の花街は、その年の暮れに出直した

12 月 15 日に、組合が営業を再び始めました。

本によると、大正 12 年 5 月の三社祭では、100 名あまりの芸者が自前の手古舞(てこまい)姿で仲見世から境内を練り歩き、語り草になりました。その 3 か月半後の 9 月 1 日、関東大震災で花街は焼けました。

浅草寺の境内が広い避難所になり、人の被害は小さく抑えられたといいます。その年の 12 月 15 日、組合は営業を再び始め、全員で手打ちをして出直しました。

本浅原須美『お座敷遊び』(光文社新書・2003)

08昭和 19 年(1944)、戦争で花柳界は営業を止められた

それでも浅草に残った芸者衆は、もんぺ姿でお座敷に出ていました。

本によると、昭和 16 年(1941)に太平洋戦争が始まると、芸者衆は三味線をやすりに持ち替えて、航空会社の部品造りに出ました。昭和 19 年 3 月 5 日には、高級料理店や待合、芸者屋などが閉じられ、多くの芸者が疎開しました。

それでも土地に残った芸者やお客様もいました。お客様が米や鶏肉、酒を持ち寄り、呼ばれた芸者はもんぺに防空頭巾で料亭へ行きました。明かりが外に漏れないよう電球を低く下ろして遊び、空襲警報が鳴ると一斉に帰ったと本は書いています。

昭和 20 年(1945)3 月 10 日の東京大空襲で、浅草一帯は焼け野原になりました。花街が立ち直るのは、戦争が終わってからです(年表-09)。

本浅原須美『お座敷遊び』(光文社新書・2003)

03戦後から今まで

09昭和 25 年(1950)、浅草の芸者衆の踊りの会「浅茅会」が始まった

平成 7 年(1995)に、名を「浅草おどり」に改めました。

戦後、疎開していた芸者衆は料亭の女将に手紙を出し、次々に浅草へ戻りました。本によると、昭和 25 年(1950)、芸者衆の発表会「浅茅会(あさじかい)」の第一回が、松屋百貨店の上のスミダ劇場で開かれ、復活の弾みになりました。名づけ親は、浅草出身の劇作家の久保田万太郎です。

会場は 2 回目から明治座に、昭和 52 年(1977)の第 17 回から浅草公会堂に移りました。平成 7 年(1995)の第 21 回からは東京浅草組合と浅草観光連盟が一緒に開くようになり、名を「浅草おどり」に改めました。

別の本は、昭和 23 年に東をどりが再び始まったのを見て、東京の花柳界が次々に踊りの会を始めた流れの中に、浅草の浅茅会もあったと書いています。都鳥が浅草で店を開いたのも、同じ 1950 年です。

本浅原須美『お座敷遊び』(光文社新書・2003)本岩下尚史『花柳界の記憶 芸者論』(文春文庫・2009)

10昭和 33 年(1958)、売春防止法の実施で、遊郭としての吉原が終わった

東京の芸者は明治から法で娼妓と分けられていたので、この法律と直接のかかわりはありませんでした。

本によると、昭和 33 年の売春防止法の実施で、遊郭としての吉原は終わりました。吉原の芸者には直接かかわりのない法律でしたが、貸座敷がなくなったため、吉原の引手茶屋は、よその花柳界と同じ料亭になりました。

別の本は、芸の高さを誇りにしてきた浅草には、この頃までに本来の芸を売る芸者だけが残ったと書いています。

本岩下尚史『花柳界の記憶 芸者論』(文春文庫・2009)本浅原須美『お座敷遊び』(光文社新書・2003)

11昭和 40 年代、浅草の芸者衆はとても忙しかった

1969 年(昭和 44 年)には、都鳥の女将も半玉として芸者になりました。

本によると、昭和 40 年代に料亭にエアコンが入りはじめると、それまで暇だった夏にもお客様が来るようになりました。一人前の芸者は、出先から次の出先へ人力車で移ったといいます。

三代目は、女将が芸者になった頃を、数のうえでは昔より減っていても「黄金時代」と呼ばれるほど芸者衆が忙しかった頃だと話しています。この頃の芸者衆と店の数は、記録によって違いがあります。

本浅原須美『お座敷遊び』(光文社新書・2003)証言三代目 河村悠太

12今(2026 年)の浅草の芸者衆は約 20 名。幇間は 6 名が見番に登録している

数は少なくなりましたが、見習いから芸者になる人が今もいます。

三代目は、今の浅草の芸者衆は約 20 名だと話しています。浅草見番には 6 名の幇間(ほうかん)が登録していて、その中には女性の幇間もいます。正式に登録された幇間がいるのは、今は浅草だけです。

浅草で待合の形を残す店は、今は都鳥だけです。芸者になる人は今も見習いとして修行し、そのあと半玉か一本として芸者になります。

証言三代目 河村悠太

このページの用語

踊子(おどりこ)
江戸で宴に呼ばれて踊った女の芸人。本は芸者の前身と書く。
吉原(よしわら)
江戸でただ一つ公に認められた遊郭。元和 3 年(1617)に許された。
新吉原(しんよしわら)
明暦 3 年(1657)に浅草の裏手へ移ったあとの吉原。浅草の花街(観音裏)とは別の場所。
見板
安永 8 年(1779)に吉原にできた、芸者を登録して取り次ぐ所。本は見番の始まりと書く。
見番(けんばん)
芸者衆が登録する花街の組合の事務所。浅草では東京浅草組合。
酌人(しゃくにん)
お酌をする人。江戸時代、吉原の外の芸者は制度の上ではこの扱いだった。
猿若町(さるわかまち)
天保の改革で江戸三座の芝居小屋が移された浅草の芝居町。
櫓下芸者(やぐらしたげいしゃ)
猿若町の芝居茶屋に生まれた芸者。浅草の芸者衆のもとの一つ。
鑑札(かんさつ)
役所が営業を認めた印。明治 5 年から、鑑札を受ければ誰でも芸者として認められた。
娼妓(しょうぎ)
明治以降の公娼の制度で、遊女に代わって使われた呼び名。
手古舞(てこまい)
祭りの行列で、芸者衆が練り歩く時の装い。大正 12 年の三社祭の手古舞は語り草になった。
浅茅会(あさじかい)
昭和 25 年(1950)に始まった浅草の芸者衆の踊りの会。のちの浅草おどり。

このページの出典

  • 証言:三代目 河村悠太(都鳥・2026年6〜10月)
  • 本:浅原須美『お座敷遊び 浅草花街 芸者の粋をどう愉しむか』光文社新書、2003
  • 本:岩下尚史『花柳界の記憶 芸者論』文春文庫、2009
  • 本:田中優子『芸者と遊び 日本的サロン文化の盛衰』角川ソフィア文庫、2016
  • 本:安藤優一郎 監修『江戸の色町 遊女と吉原の歴史』

町を移りながら受け継がれてきた芸

芸者の文化は江戸の太平の世に生まれ、吉原や深川、柳橋、浅草と町を移りながら受け継がれてきました。浅草の花街は、震災で焼けても、戦争で営業を止められても、そのたびに出直してきました。芸者衆の数は昔よりずっと少なくなりましたが、今も見習いから芸者になる人がいます。浅草のお座敷は、こうして今も続いています。

更新の記録 2026-10-24 12 項目で公開

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