浅草 都鳥MIYAKODORI · ASAKUSA

芸者衆の芸と踊り浅草の曲・お座敷の芸・稽古

このページで分かること

浅草のお座敷で踊られる曲、お座敷をつける時の段取り、芸者衆が三味線を習う稽古の三つに分けています。

  1. 1浅草のお座敷で踊る曲浅草名物・さわぎ・浅草ごよみは、どんな曲で、誰が踊るのか。くわしく
  2. 2お座敷をつける時お座敷で芸を見せる時、何曲をどう見せるのか。今は出なくなった曲と、お客様が唄う小唄の話。くわしく
  3. 3三味線の先生と稽古浅草の芸者衆は誰に三味線を習っているのか。大和楽とはどんな邦楽か。芸者衆の稽古の話。くわしく
障子の前の赤い毛氈に座り、三味線を弾く芸者。
三味線を弾く芸者(浅草 都鳥・2026年9月)。

お座敷で踊られる浅草名物やさわぎ、浅草ごよみはどんな曲なのか。お座敷をつける時の段取りと、芸者衆が三味線を習う大和楽の家元の話を、都鳥の女将と三代目、大和楽の家元の証言、花柳界の本の記述から記録しています。

12 項目 10 語 最終更新 2026-10-24

この資料室は、浅草で 1950 年から続く待合茶屋(芸者衆を呼んでお座敷遊びをする店)の都鳥が、浅草で直接聞いた話(証言)を大切にしてまとめています。人や時代によって覚え方の違う話もあり、書いてあることが必ずしも正しいとは限りません。違うところに気づいた時は、「知りたいことを送る」から教えてください。確かめて直していきます。

01浅草のお座敷で踊る曲

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01初めてのお座敷でまず見る踊りは、「浅草名物」と「さわぎ」

二つの曲は今ではほぼ組になっていて、続けて踊られます。

女将によると、今は浅草名物からさわぎへ続けて踊るのが、なんとなく組のようになっています。都鳥で初めてお座敷に上がるお客様が、まず見るのもこの二曲です。浅草名物はにぎやかな曲なので、静かな曲のあとに踊っても座が盛り上がると女将は話しています。

三代目も、この二曲は基本の組で、ほぼ必ず踊ると話しています。2003 年の本にも、お座敷では浅草名物の冒頭だけを踊ってさわぎへ続け、これを通称「名物さわぎ」と呼ぶと書かれています。

証言都鳥の女将証言三代目 河村悠太本浅原須美『お座敷遊び』(光文社新書・2003)

02浅草名物は、浅草の名所を唄い、扇子で三社祭や助六を描く踊り

本によると、正式な名は「伎競浅茅賑(わざくらべあさじのにぎわい)」です。

浅草名物は、浅草のために作られた曲です。女将によると、浅草の地名や名所を次々に挙げて唄い、踊りには三社祭でおみこしを担ぐ様子や、花川戸の助六の形が入っています。最初から扇子を使い、扇子と手で様子や景色を描いていきます。何人かで踊る、にぎやかな曲です。

できた時期について、女将は 50 年あまり前、自分が半玉ではなくなってから作られたと思う、と話しています。正確な年は見番に聞かないと分からないそうです。2003 年の本は、芸者衆の踊りの会「浅茅会」のために作られた、二十数分の曲だと書いています。

できた年は、女将の話にも本にも出てきません。

証言都鳥の女将本浅原須美『お座敷遊び』(光文社新書・2003)

03さわぎは吉原から来た曲。お座敷では一本のお姉さんが踊る

東京の花柳界で、さわぎを知らない人はいないそうです。

さわぎは、東京の花柳界のほとんどで踊られている曲です。女将によると吉原から来た曲で、浅草名物よりずっと古くからあります。2003 年の本も、元禄の頃に吉原の茶屋で生まれたと書いています。唄うのは、お客様を送り出す様子です。曲は短く、にぎやかです。

歌詞と振りは、席や季節で変わります。おめでたい席、春、夏で歌詞が替わり、おめでたい席の歌詞には鶴と亀が出てきます。

浅草の決まりでは、舞台では半玉もさわぎを踊りますが、お座敷では一本のお姉さんが踊ります。半玉は人数が足りない時を除いて踊らず、太鼓などのお囃子に回ります。お稽古では半玉のうちから習います。女将は、一本のお姉さんが踊る、あこがれのような曲だと話しています。

証言都鳥の女将本浅原須美『お座敷遊び』(光文社新書・2003)

04浅草ごよみは春夏秋冬の四つ。振りは毎年変わる

同じ季節の曲でも、年ごとに振りが新しくなります。

浅草ごよみは、季節を唄う曲です。三代目によると、春・夏・秋・冬の四つがあり、振りは毎年変わります。2003 年の本も、浅草ごよみを浅草名物と並ぶ、浅草の芸者衆の定番の曲に挙げています。

女将も、季節ごとにほかの曲や演目が必ずあると話しています。

振りを誰が付けるのか、季節ごとに変わるのかは、まだ聞けていません。

証言三代目 河村悠太証言都鳥の女将本浅原須美『お座敷遊び』(光文社新書・2003)

02お座敷をつける時

05芸は三味線と唄と踊りでできている。踊りは 3〜4 曲、10〜15 分

どの曲を踊るかは、その場で地方と立方が決めます。

三代目は、お座敷の芸は三味線と唄と踊りの三つがそろって成り立つと話しています。お座敷をつける時は、踊りを 3〜4 曲、10〜15 分ほど見せます。曲は地方と立方がその場で決めます。リクエストを受けることもありますが、ほとんどありません。

三味線が鳴ると、お客様は少し身構え、場が凛とします。部屋の明かりは暗くせず、少し明るくします。踊りが終わると部屋はいったん静まり、少し間をおいてから拍手が起きます。

生の演奏と録音ははっきり違う、と三代目は話しています。録音だと残念に思うお客様も多く、人数も場の雰囲気も変わるそうです。踊りをたしなむお客様なら、芸者衆と一緒に踊ることもできます。

証言三代目 河村悠太

06お座敷をつける時は、地方の座る所に毛氈を敷く

芸者衆は今も「お勉強します」という言葉を使います。

三代目によると、都鳥でお座敷をつける時は、地方が座る所に毛氈を敷きます。「お勉強します」も、芸者衆が今も使う言葉です。

2003 年の本は、浅草のお座敷の踊りの始まり方を書いています。お姉さんの声がかりで毛氈を敷き、地方のお姉さんが三味線の音合わせを始めると、それが踊りの合図です。そこからは話をやめて静かに見るのが礼儀だそうです。踊りは若い芸者から順に始まります。踊り終えた芸者衆がそのままそばに来てお酌をしてくれるのも、お座敷遊びならではの喜びだと本は書いています。

本によると、三味線と唄を別の人が受け持つ形を「一丁一枚」と呼びます。曲によっては、鳴り物や笛が加わります。

証言三代目 河村悠太本浅原須美『お座敷遊び』(光文社新書・2003)

07踊りは、唄の文句を振りで見せる

清元や常磐津などの古い曲は、今のお座敷ではまず出ません。

三代目によると、今の浅草のお座敷の踊りも、唄の文句を振りで見せるものが多くあります。

清元・常磐津・宮薗節・河東節・一中節・荻江節といった曲が都鳥のお座敷で出ることは、今はまずありません。昔はあったそうです。

浅草の芸者衆が習う日本舞踊の流派は、花柳流と藤間流です。

証言三代目 河村悠太

08お客様が唄う小唄に合わせて、芸者衆が踊ることもある

今ではごくまれですが、そうした場面は今もあります。

お客様が小唄を唄い、それに合わせて芸者衆が踊る。三代目によると、そうした場面は今もごくまれにあります。

2003 年の本によると、ベテランの立方は百を超える小唄の振りを身につけています。小唄をたしなむお客様が芸者の三味線で唄えば、打ち合わせなしにその場で踊ってもらえたそうです。季節の小唄もお座敷でよく出ると書いています。

本には、昔の浅草のお座敷の話もあります。小唄や長唄だけでなく、演歌や民謡、校歌までお客様に合わせて唄い、年配のお客様はお姉さん芸者と一緒に唄ったり踊ったりしました。ある芸者がその場で振りを付けて踊った流行歌が、そのまま定番の踊りになったこともあったそうです。

都鳥で前もって頼めるかどうかは、まだ確かめていません。

証言三代目 河村悠太本浅原須美『お座敷遊び』(光文社新書・2003)

03三味線の先生と稽古

09浅草の芸者衆の三味線の先生は、大和楽の家元

女将が頼んで始まった稽古は、二十数年続いています。

大和楽(やまとがく)の家元、大和櫻笙さんは、浅草の芸者衆の三味線の先生です。20 代の学生だった頃、女将から芸者衆の稽古を頼まれたのが始まりでした。女将は「無理やりお願いした」と話しています。教え始めた頃は、初めて三味線を持つ人ばかりだったそうです。稽古の場所は都鳥です。それから二十数年がたち、家元は「みんなと一緒に成長できた」と話しています。

家元と女将の縁は、先代の家元の時から続いています。大和楽を浅草に持ち込んだのは、浅草のある姉さん芸者でした。先代は長唄から始めた三味線弾きで、女将は踊りの舞台に立つ時、先代に三味線を弾いてもらっていたそうです。付き合いは女将が 10 代の頃からで、半世紀を超えます。

家元は、住まいは浅草ではないけれど、浅草の花柳界に育てられたと話しています。幼稚園の頃、日本橋三越の「のれん会」の舞台で、父に肩車をしてもらって浅草の芸者衆の踊りを見ました。踊っていた女将がきれいすぎて、楽屋で挨拶をしようとしても一言も出なかったそうです。

証言大和櫻笙さん(大和楽の家元)証言都鳥の女将

10大和楽は、昭和 8 年(1933)にできた、女性が中心の邦楽

ほかの邦楽と違い、声を重ねてハモるのが特徴だと家元は話しています。

家元によると、大和楽は 1933 年にできた、女性を中心とした邦楽です。作ったのは大倉財閥の大倉喜七郎でした。学生の頃にケンブリッジ大学へ留学してバレエやオペラを見て、女性が主役になる文化が日本にはないと感じたのが始まりだそうです。帰国してから、当時の詩人たちに歌詞を書いてもらい、当時の一流の演奏家に曲を作ってもらいました。

ほかの邦楽との大きな違いは、ハモることです。輪唱やハーモニーがあり、日本の音楽に西洋の音楽を混ぜたような響きになります。歌詞も分かりやすく、花やうぐいすなど、聞いたことのある言葉が多く出てきます。先代の家元は「大和楽は自由であるべき」と言い続け、今も新しい曲が作られています。

女将は、お座敷で弾いてもらうなら、清元や長唄よりも大和楽のほうが柔らかく、雰囲気が合うと話しています。にぎやかな曲も、しっとりした静かな曲もあります。女性だけの世界という点で、芸者衆とも通じるそうです。浅草の芸者衆の中にも、大和楽の名取がいます。

証言大和櫻笙さん(大和楽の家元)証言都鳥の女将

11三味線には細棹・中棹・太棹の三つがある

長唄や小唄は細棹、大和楽は中棹がおもに使われます。

家元によると、三味線は細棹・中棹・太棹の三つに分かれ、曲の種類で使い分けます。長唄や小唄は細棹、大和楽は中棹が中心です。家元は、バイオリン、ビオラ、チェロ、コントラバスのような違いだとたとえています。

三味線はどこを取っても難しい、と家元は話しています。オーケストラには指揮者がいますが、日本の楽器にはいません。歌舞伎座でも踊りの会でも、一列に並んで息を合わせて弾きます。初めての人の稽古は、誰でも知っている「さくらさくら」から始めます。曲を覚えるためというより、三味線そのものの稽古だそうです。

家元は、心と音色は同じだと考えていて、きれいな音色を出すために、きれいな心でいるよう心がけていると話しています。

証言大和櫻笙さん(大和楽の家元)

12「芸がなかったらただの者」。女将はそれほど芸を大事にしている

今の浅草の芸者衆のお稽古には、茶道も入っています。

都鳥の女将は「芸者は芸がなかったらただの者だよ」と言うほど芸を大事にしている、と三代目は話しています。三代目によると、今の浅草の半玉と芸者衆のお稽古には、茶道も入っています。稽古として習うもので、都鳥のお座敷で茶道をするわけではありません。

2003 年の本には、ある地方の花街の、九十歳の現役の芸者の話があります。今も毎日三味線の稽古をしているのかと聞かれ、稽古をしないとおばあさんになってしまう、とすぐに答えて周りを沸かせたそうです。著者は、芸者は現役でいる限り、九十でも百でも年寄りにはならないことを、この人から教わったと書いています。

証言三代目 河村悠太本浅原須美『お座敷遊び』(光文社新書・2003)

このページの用語

浅草名物(あさくさめいぶつ)
浅草のために作られた曲。浅草の名所を唄い、扇子と手で様子を描いて踊る。正式な名は「伎競浅茅賑」。
さわぎ
東京の花柳界のほとんどで踊られる、吉原から来た曲。お座敷では一本の芸者が踊る。
名物さわぎ(めいぶつさわぎ)
浅草名物の冒頭からさわぎへ続けて踊る形の通称。
浅草ごよみ
季節を唄う曲。春・夏・秋・冬の四つがあり、振りは毎年変わる。
浅茅会(あさじかい)
浅草の芸者衆の踊りの会。本によると、浅草名物はこの会のために作られた。
お座敷をつける
お座敷で芸者衆が芸を披露すること。
毛氈(もうせん)
お座敷をつける時、地方が座る所に敷くもの。
一丁一枚(いっちょういちまい)
三味線と唄を別の人が受け持つ形。
大和楽(やまとがく)
昭和 8 年(1933)にできた、女性が中心の邦楽。ハモるのが特徴。
細棹・中棹・太棹(ほそざお・ちゅうざお・ふとざお)
三味線の三つの種類。曲の種類で使い分ける。

このページの出典

  • 証言:都鳥の女将 踊りについての録音(2026年6月)・大和楽の家元との対談(2026年7月)
  • 証言:大和櫻笙さん(大和楽の家元) 女将との対談(2026年7月)
  • 証言:三代目 河村悠太(都鳥・2026年6〜9月)
  • 本:浅原須美『お座敷遊び 浅草花街 芸者の粋をどう愉しむか』光文社新書、2003

曲と稽古を次の人へ

浅草名物とさわぎは今もお座敷で踊られ、浅草ごよみの振りは毎年新しくなります。三味線の稽古は家元について都鳥で二十数年続き、初めて三味線を持った人たちが今のお座敷で弾いています。

更新の記録 2026-10-24 12 項目で公開

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