01「幇」は取り持つという意味。浅草では「ほうかん」と呼ぶ
酒席の間を取り持つ人なので「幇間」と書きます。
本によると、幇間の「幇」は幇助の幇で、酒席の間を取り持つという意味です。浅草では「ほうかん」と呼び、お座敷の手配では、芸者衆と同じく「幇間をかける」と言います。
幇間は、箱屋とよく取り違えられます。本は、二つはまったく別の仕事だと書いています。幇間はお座敷でお客様をもてなす芸人です。箱屋は芸者衆の支度を助ける花柳界の裏方で、お座敷には上がりません。
幇間はどこから生まれ、江戸の座敷で何をしてきたのか。今の浅草のお座敷では、どんな役をしているのか。都鳥の三代目と女将の証言、花柳界の本の記述から記録しています。
11 項目 8 語 最終更新 2026-10-24
この資料室は、浅草で 1950 年から続く待合茶屋(芸者衆を呼んでお座敷遊びをする店)の都鳥が、浅草で直接聞いた話(証言)を大切にしてまとめています。人や時代によって覚え方の違う話もあり、書いてあることが必ずしも正しいとは限りません。違うところに気づいた時は、「知りたいことを送る」から教えてください。確かめて直していきます。
酒席の間を取り持つ人なので「幇間」と書きます。
本によると、幇間の「幇」は幇助の幇で、酒席の間を取り持つという意味です。浅草では「ほうかん」と呼び、お座敷の手配では、芸者衆と同じく「幇間をかける」と言います。
幇間は、箱屋とよく取り違えられます。本は、二つはまったく別の仕事だと書いています。幇間はお座敷でお客様をもてなす芸人です。箱屋は芸者衆の支度を助ける花柳界の裏方で、お座敷には上がりません。
女の芸者が増えて、男の側が「男芸者」、やがて「幇間」と呼ばれるようになりました。
江戸の吉原では、はじめは男の芸人が「芸者」と呼ばれていました。本によると、江戸の半ばから「芸者」が女の芸者を指すようになり、男の側はわざわざ「男芸者」と名乗るようになりました。やがて「幇間」「太鼓持ち」と呼ばれるようになった、と本は書いています。吉原の女の芸者は、安政より後には三百人を超えましたが、男芸者は幕末まで四十人前後のままだったそうです。
移り変わりの説明は、本によって少しずつ違います。ある本は、もとは楽器や唄の専門家だった男芸者が、のちに役者の物真似や軽い芸も見せるようになり、幇間と呼ばれたと書いています。別の本は二つの説を挙げています。男芸者が幇間と名を変えたという説と、吉原の幇間は物真似やおしゃべりを得意とする別の芸人だったという説です。
江戸の書物に、客が「芸者」と言って男芸者を頼む場面があります。
明和 7 年(1770)の洒落本『辰巳之園』に、深川の座敷の場面があります。客が「賑やかに芸者を呼ませう」と頼むと、仲居は、羽織の芸者にするか、男芸者にするかと聞き返します。本の著者は、ここで客が言う「芸者」は男芸者、つまり幇間のことだと読んでいます。
安永 4 年(1775)ごろに勝川春章が描いた深川の絵には、客の前でもてなす幇間と、その脇で三味線を弾く黒羽織の芸者が描かれています。
連歌師や俳諧師などが吉原に住み着き、幇間になったと見る本があります。
新橋を中心に東京の花柳界を書いた本の著者は、幇間の源を、連歌師・俳諧師・医師・絵師といった人々に見ています。和歌や漢籍の知識、連歌や茶の湯などの教養を場に合わせて生かし、座を取り持った人々で、中には吉原に住み着いて幇間になる者もいた、という見立てです。
同じ著者は、吉原ができたころの男の芸人が、遊女に上品な振る舞いや、和歌俳諧・茶の湯・生花の心得を教えたとも書いています。
江戸の吉原を書いた別の本にも、幇間には茶の湯や俳諧のたしなみのある者が少なくなかった、とあります。
料亭や芸者衆からは「太夫衆(たゆうしゅう)」と呼ばれていました。
2003 年の本によると、かつての幇間は芸人であるのと同時に、限られた予算で満足の大きい宴を仕切る役でもありました。料亭や女将、芸者衆と親しく、花街のことを知り尽くしていたそうです。今はその役は無くなり、芸者衆と同じく座を盛り上げる芸人の部分が残った、と本は書いています。
「太夫衆」という呼び名の由来は、本によって違います。2003 年の本は、仕事を運んでくれる幇間を、料亭や芸者衆が持ち上げてそう呼んだと書いています。2009 年の本は、幇間は音曲を専門にし、ほとんどが流儀の名取だったので「太夫衆」と呼ばれたと書いています。
吉原の座敷で語り継いだ幇間のおかげで、古い曲が今に伝わったと本は書いています。
2009 年の本によると、江戸の音曲は歌舞伎の芝居で使われるものが本格とされ、芝居から見放された流派の音曲は消えていきかねませんでした。それを引き受けて吉原の座敷で語り、明治からの芸者に引き渡したのが、太夫衆と呼ばれた幇間だったそうです。河東節・一中節・宮薗節・荻江節といった古い曲は、こうして江戸から明治へ持ち越されました。
三代目によると、今の都鳥のお座敷で、こうした古い曲が出ることはまずありません。昔はあったそうです。
客の気持ちをくみ、遊女の心を読み、茶屋や船宿にまで気を配ったそうです。
江戸の吉原を書いた本によると、幇間はおどけた小咄を聞かせたり、唄や踊りを披露したりして座敷を沸かせました。それ以上に求められたのが気働きです。客の気持ちをくみ、遊女の心の動きを読み、茶屋や船宿への気配りまで欠かさなかったといいます。
別の本の著者は、昭和 34 年の舞台の映像に残る吉原の幇間が、客から盃を受ける所作に目を留めています。手早いなかに丁寧を尽くした動きから、幇間は自分の存在を消すことが大事なのだと分かる、と書いています。
まずはお客様を知ることから始める、と三代目は話しています。
三代目によると、幇間がお座敷に入るのは芸者衆と同じ時です。すっと挨拶をして入り、場を壊さないのも芸者衆と同じ作法です。入ってすぐに芸を見せることはありません。自己紹介をするかどうかも、その場を見て決めます。まずはお客様を知ることから始めるそうです。
幇間は、芸者衆のような白塗りはしない、と女将は話しています。
お客様のサポート、場の盛り上げ、芸者衆のフォローの三つが、幇間のいるお座敷の違いです。
幇間には、屏風を使った芸など、幇間にしかない芸があります。でも三代目は、「これがいちばん笑う」という決まった芸はないと話しています。芸で盛り上げる以上に、お座敷という場そのものを盛り上げるのが幇間の仕事だそうです。
三代目は、幇間がいるお座敷といないお座敷の違いを三つ挙げています。お客様のサポート、場の盛り上げ、芸者衆のフォローです。幇間はどの場面でも気を利かせていて、起きた笑いに言葉を足してもっと大きくしたり、静かなお客様に声をかけたりします。芸者衆とは持ちつ持たれつで、お互いを高め合っているように見えるそうです。
季節の行事には、幇間ならではの芸や出番があります。
三代目によると、1 月のお座敷では、幇間が獅子舞などのめでたい芸を見せます。芸者衆が黒の引き着を着る時期です。
三社祭では、芸者衆が組を作って組踊りで料亭などを回ります。三代目によると、今は幇間の組もあります。
海外のお客様は「男性の芸者?」と驚き、浅草にしかいないと知ると呼びたがるそうです。
三代目によると、幇間を呼ぶのは、遊びに慣れた方や、文化を知りたい方が多いそうです。一度呼んだお客様は、必ずと言っていいほど次も呼びます。海外のお客様は、まず「男性の芸者?」と驚きます。そして浅草にしかいないこと、芸者の最初の原点が男性だったことを知ると、呼びたがるそうです。
正式に登録された幇間がいるのは、今は浅草の見番だけです。幇間も芸者衆も、お座敷のあとに「今日はやりにくかった」とは言いません。うまくいかなかった時は、自分の力が足りなかったと考えるそうです。
幇間は、江戸の吉原で「芸者」と呼ばれた男の芸人から始まり、座を取り持ち、古い曲を次の世代に渡してきました。2003 年の本で 4 名だった浅草の幇間は、今は 6 名が見番に登録していて、女性の幇間もいます。今の浅草のお座敷でも、幇間は芸者衆と一緒に場を盛り上げています。
更新の記録 2026-10-24 11 項目で公開