浅草 都鳥MIYAKODORI · ASAKUSA

芸者と遊女の違いよくある取り違えを本と証言で

よく取り違えられる二つ

芸者と遊女は、同じものと思われることがあります。けれども二つは昔から、役割のはっきり違う、別の仕事として分けられてきました。

障子に向かって立つ立方の芸者の後ろ姿。お太鼓に結んだ帯が背中にある。
話題芸者遊女
昔からの言い方芸を売る色を売る
帯の結び目後ろで結ぶ前で結ぶ
歴史の順番遊女より後に、別の仕事として分かれた芸者より古い
明治からの東京鑑札を受けた芸人。色を売ることは禁じられた娼妓と呼ばれ、公娼の制度の中に置かれた
写真:芸者の帯は後ろで結ぶ(浅草 都鳥・2026年9月)。

芸者と遊女は、よく取り違えられます。けれども二つは、江戸の昔から別の仕事として分かれていました。都鳥の女将と三代目の証言、花柳界の本の記述から、違いと歴史の順番を記録しています。

10 項目 12 語 最終更新 2026-10-24

この資料室は、浅草で 1950 年から続く待合茶屋(芸者衆を呼んでお座敷遊びをする店)の都鳥が、浅草で直接聞いた話(証言)を大切にしてまとめています。人や時代によって覚え方の違う話もあり、書いてあることが必ずしも正しいとは限りません。違うところに気づいた時は、「知りたいことを送る」から教えてください。確かめて直していきます。

01二つの役割の違い

↑ 芸者と遊女の違いの早見表は、このページのいちばん上にあります

01遊女は色を売り、芸者は芸を売る

昔から、二つの仕事はこの言い方で分けられてきました。

芸者と遊女のいちばんの違いを、昔の人は「遊女は色を売る、芸者は芸を売る」と言い表しました。芸者は踊りや三味線、唄でお客様を楽しませる人で、遊女とは仕事の中身が違います。都鳥の女将は、これは差別の言葉ではなく、役割の違いとしてはっきり言われていたことだと話しています。

幕末の文人、成島柳北(なるしまりゅうほく)も、芸者は芸を売るもので、色を売るのは遊女だと書き残しました。世間は二つを同じように見がちでしたが、芸者には意地があり、身持ちの堅い人が多かったとも書いています。

証言都鳥の女将本岩下尚史『花柳界の記憶 芸者論』(文春文庫・2009)

02芸者の務めは、座敷の芸と取り持ち

芸を磨く人ほど人気があり、お客様も一緒に芸を楽しみました。

江戸の吉原の芸者は、遊女の仕事に踏み込まず、座敷で芸を見せ、席を取り持つことだけをしました。本はこれを東京の花柳界の原則と書いています。

録音のない時代、宴には三味線や唄の生の音が欠かせませんでした。そのため芸を磨いた上手な芸者ほど人気がありました。お客様の側にも三味線や唄、踊りをたしなむ人が多く、芸者と一緒に弾いたり歌ったりしたそうです。女将は「今でいうカラオケ」に近いと話します。今はそうしたお客様は少なくなりましたが、まれにいらっしゃいます。

証言都鳥の女将本岩下尚史『花柳界の記憶 芸者論』(文春文庫・2009)

03見た目でも分かる。芸者は帯を後ろ、遊女は前で結ぶ

ひと目で見分けられるように、決まりができていたそうです。

芸者と遊女は、見た目でも区別されていました。芸者は帯を後ろで結び、遊女は前で結びます。女将は、二つの仕事がはっきり分けられるのに合わせて、見た目ですぐ分かる決まりもできたと話しています。下の写真のように、芸者は帯を背中のお太鼓に結びます。

芸者の後ろ姿の寄り。帯を背中でお太鼓に結んでいる。
芸者の帯は、背中でお太鼓に結ぶ(浅草 都鳥・2026年9月)。
証言都鳥の女将

02歴史の順番と吉原

04歴史は遊女の方が古い。芸者は後から別の仕事になった

芸と色を一人が兼ねていた時代のあとに、芸だけを受け持つ芸者が生まれました。

遊女の歴史は芸者より古く、芸者は後から独立した仕事として形になりました。女将は、仕事が分けられてからの芸者は、芸を磨くことに打ち込んだと話しています。

本は、昔の遊び女(あそびめ)が芸と色の両方を受け持っていたことを思えば、「色は遊女、芸は芸者」という分け方は、それまでにない新しい形だったと書いています。

証言都鳥の女将本岩下尚史『花柳界の記憶 芸者論』(文春文庫・2009)

05最初の「芸者」は男の芸人だった

女の芸者が増えてから、男の側が「男芸者」と呼ばれるようになりました。

芸者という言葉は、もとは一芸を持つ人を指しました。吉原では、宴の進行を助ける男の芸人を芸者と呼び、幇間(ほうかん)や太鼓持ちとも呼びました。

やがて三味線を持って宴を取り持つ女の芸人が現れ、「女芸者」と呼ばれました。女の方が数で上回ると、もとの男の側が「男芸者」と名乗るようになりました。本には、芸者のもとの芸は踊りではなく三味線だったらしい、とも書かれています。

本岩下尚史『花柳界の記憶 芸者論』(文春文庫・2009)本浅原須美『お座敷遊び』(光文社新書・2003)

06江戸時代、正式に「芸者」を名乗れたのは吉原芸者だけ

ほかの町の芸者は、制度の上では「酌人」の扱いでした。

吉原は、元和 3 年(1617)に江戸でただ一つ公に認められた遊郭です。江戸時代を通して、公に芸者と認められたのは、この吉原の芸者だけでした。

深川や柳橋などの芸者も芸者を名乗り、町芸者と呼ばれましたが、制度の上ではお酌をする「酌人」の扱いでした。吉原の芸者は、遊女の仕事に踏み込まないことと引き換えに芸者として認められ、三味線の芸の担い手として誇りを持っていたと本は書いています。

本岩下尚史『花柳界の記憶 芸者論』(文春文庫・2009)本浅原須美『お座敷遊び』(光文社新書・2003)

07見番の始まりは吉原にある

芸者の名前を板に掲げて、登録と取り次ぎをしたのが始まりです。

女将は、吉原の芸者が公に認められた頃に、今の見番にあたる事務所が初めて生まれたと話しています。芸者の芸名は板に書いて掲げられ、遊女の名と段を分けて並べたので、誰が芸者かが板の上でも分かったそうです。

本は、安永 8 年(1779)に吉原の遊女屋が芸者の名札を掛ける「見板」を作り、これが東京各地の見番の始まりだと書いています。見板は芸者を登録し、注文に応じてお座敷へ取り次ぎました。

見番の始まりは、女将の説明と本の記述が一致していないため、両方を並べています。

証言都鳥の女将本岩下尚史『花柳界の記憶 芸者論』(文春文庫・2009)

03明治から今まで

08明治 5 年から、東京では芸者と娼妓を法で分けた

芸者は鑑札を受けて公に認められた芸人になり、色を売ることは禁じられました。

明治 5 年(1872)、政府は遊女や芸者の年季奉公を禁じました。その後、遊女屋は「貸座敷」、遊女は「娼妓(しょうぎ)」と呼び名が変わり、国が認める公娼の制度ができました。

東京では明治 5 年から、芸者と娼妓がはっきり分けられました。芸者は東京府に願い出て鑑札(かんさつ)を受け、色を売ることは法で禁じられました。これで江戸時代に「酌人」の扱いだった町芸者も、吉原の芸者と同じように、公に認められた芸人になりました。

本岩下尚史『花柳界の記憶 芸者論』(文春文庫・2009)

09戦後の混乱のなかでも、浅草には芸を売る芸者が残った

本は、芸の高さを誇りにしてきた浅草には、本来の芸者だけが残ったと書いています。

戦後しばらくは、芸者として出ながら、生活のために色を売る人もいました。芸の高さを誇りにしてきた浅草では、そうした人はしだいにいなくなり、昭和 33 年の売春防止法の罰則の施行を機に姿を消しました。本は、浅草には本来の芸者だけが残ったと書いています。

本浅原須美『お座敷遊び』(光文社新書・2003)

10花魁道中は遊女の行列。今の浅草の芸者衆の行事ではない

浅草で見られる花魁道中の再現と、浅草の花柳界はかかわりがありません。

花魁(おいらん)は、遊女の呼び名の一つです。浅草の観音裏では、一葉桜まつりなどで花魁道中が再現されますが、今の浅草の芸者衆や都鳥は、この再現とかかわりはありません。

吉原の夜に弾かれた「清掻(すががき)」という三味線の手も、今の浅草の地方(じかた)は知っていますが、弾いてはいません。浅草の芸者衆が受け継いでいるのは、芸者としての踊りと三味線、唄です。

証言三代目 河村悠太

このページの用語

遊女(ゆうじょ)
江戸時代の遊郭などで、色を売ることを仕事にした女性。芸者とは別の仕事。
花魁(おいらん)
遊女の呼び名の一つ。
吉原(よしわら)
江戸でただ一つ公に認められた遊郭。元和 3 年(1617)に許された。
吉原芸者(よしわらげいしゃ)
吉原の芸者。江戸時代に公に芸者と認められたのは吉原芸者だけだった。
町芸者(まちげいしゃ)
吉原の外の町で芸者を名乗った芸者。深川・柳橋など。
酌人(しゃくにん)
お酌をする人。江戸時代、吉原の外の芸者は制度の上ではこの扱いだった。
取り持ち(とりもち)
宴の席をにぎやかにし、場をまとめること。芸者の務めの一つ。
男芸者(おとこげいしゃ)
男の芸人。女の芸者が増えてから、もとの男の芸者がこう呼ばれた。
娼妓(しょうぎ)
明治以降の公娼の制度で、遊女に代わって使われた呼び名。
貸座敷(かしざしき)
明治以降、遊女屋に代わって使われた呼び名。
鑑札(かんさつ)
役所が営業を認めた印。明治以降、東京の芸者は鑑札を受けて芸人として認められた。
花魁道中(おいらんどうちゅう)
花魁の行列。今の浅草では、祭りなどで再現される。

このページの出典

  • 証言:都鳥の女将 取材の映像(2026年4月 受領)
  • 証言:三代目 河村悠太(都鳥・2026年9月)
  • 本:浅原須美『お座敷遊び 浅草花街 芸者の粋をどう愉しむか』光文社新書、2003
  • 本:岩下尚史『花柳界の記憶 芸者論』文春文庫、2009

芸を売る仕事を受け継ぐ

芸者と遊女は、今もときどき取り違えられます。けれども芸者は江戸の昔から芸を売る仕事として分かれ、明治にも戦後にも、その線を守ってきました。浅草の芸者衆は今も、踊りと三味線、唄を受け継いでいます。

更新の記録 2026-10-24 10 項目で公開

資料室のトップへ