01浅草の芸者衆は、江戸の三つの流れから生まれた
明治の末に、花街は浅草寺の裏手の「観音裏」へ移りました。
本によると、浅草の芸者衆のもとは、江戸時代の中ごろの三つの流れにあります。浅草寺の門前の田楽茶屋から生まれた芸者、吉原の大門の外の山谷堀のあたりを出先にした芸者、猿若町の芝居茶屋に生まれた芸者です。
明治の中ごろ、これらの芸者が浅草公園のまわりに集まり、「浅草公園芸者」と名乗りました。明治 29 年(1896)には公園見番ができ、これが今の東京浅草組合につながります。花街が浅草公園から、浅草寺の裏手の「観音裏(かんのんうら)」へ移ったのは明治の末です。
別の本は、浅草を浅草寺の門前町として栄えた花街と書き、敗戦後まで、東京でいちばん芸者の多い花街だったとしています。




