浅草 都鳥MIYAKODORI · ASAKUSA

浅草花街の記録人数の移り変わり・幇間・料亭

数で見る浅草の花街

浅草の料亭や芸者衆は、昔に比べるとずっと少なくなりました。それでも今も、芸を受け継ぐ芸者衆と幇間がいて、お座敷は続いています。

約100年前の料亭やお茶屋
約300軒大正の末ごろ・三代目の話
今、芸者衆と過ごせる店
都鳥を入れて2軒2026年8月時点・三代目の話
今の浅草の芸者衆
約20名2026年・三代目の話
浅草見番に登録している幇間
6名2026年・三代目の話(女性の幇間を含む)
金屏風の前に並ぶ芸者衆三人。花かんざしの芸者、紫の着物の芸者、三味線を持つ芸者。
お座敷に並ぶ芸者衆(浅草 都鳥・2026年9月)。

浅草の花街には、どれほどの店と芸者衆がいて、今はどうなっているのか。料亭やお茶屋、芸者衆の数の移り変わりと、幇間や待合茶屋など浅草ならではのものを、浅草で聞いた証言と本の記述から記録しています。

10 項目 12 語 最終更新 2026-10-24

この資料室は、浅草で 1950 年から続く待合茶屋(芸者衆を呼んでお座敷遊びをする店)の都鳥が、浅草で直接聞いた話(証言)を大切にしてまとめています。人や時代によって覚え方の違う話もあり、書いてあることが必ずしも正しいとは限りません。違うところに気づいた時は、「知りたいことを送る」から教えてください。確かめて直していきます。

01数と店の移り変わり

↑ 数の早見は、このページのいちばん上にあります

01浅草の芸者衆は、江戸の三つの流れから生まれた

明治の末に、花街は浅草寺の裏手の「観音裏」へ移りました。

本によると、浅草の芸者衆のもとは、江戸時代の中ごろの三つの流れにあります。浅草寺の門前の田楽茶屋から生まれた芸者、吉原の大門の外の山谷堀のあたりを出先にした芸者、猿若町の芝居茶屋に生まれた芸者です。

明治の中ごろ、これらの芸者が浅草公園のまわりに集まり、「浅草公園芸者」と名乗りました。明治 29 年(1896)には公園見番ができ、これが今の東京浅草組合につながります。花街が浅草公園から、浅草寺の裏手の「観音裏(かんのんうら)」へ移ったのは明治の末です。

別の本は、浅草を浅草寺の門前町として栄えた花街と書き、敗戦後まで、東京でいちばん芸者の多い花街だったとしています。

本浅原須美『お座敷遊び』(光文社新書・2003)本岩下尚史『花柳界の記憶 芸者論』(文春文庫・2009)

02約100年前、浅草には料亭やお茶屋が約300軒あった

芸者は千人を超え、お茶屋(待合茶屋)が料亭よりずっと多い町でした。

三代目は、約 100 年前の浅草には料亭やお茶屋が約 300 軒あり、芸者は千人を超えていたと話しています。

本は、関東大震災の前の浅草を、料理屋 49 軒、待合 250 軒、芸者 1060 人と書いています。料亭は料理を出す店で、待合茶屋は芸者衆を呼んでお座敷遊びをする店です。当時の浅草では、待合茶屋が料亭の 5 倍ほどありました。

証言三代目 河村悠太本浅原須美『お座敷遊び』(光文社新書・2003)

03震災と戦争のあとも、浅草の花街は立ち直った

町が二度焼けても、芸者衆は戻ってきました。

大正 12 年(1923)9 月 1 日、関東大震災で浅草の花街は焼けました。本によると、その年の 12 月 15 日には組合が営業を再び始め、料亭 6 軒、待合茶屋 5 軒、芸者 29 名から出直しました。

昭和 20 年(1945)3 月の東京大空襲で、浅草一帯は再び焼け野原になりました。戦後、疎開していた芸者衆は次々に浅草へ戻り、昭和 21 年 1 月には料亭 14 軒、芸者 40 名になりました。

昭和 25 年(1950)には、芸者衆の踊りの発表会「浅茅会」の第一回が開かれ、のちの「浅草おどり」になりました。本は昭和 30 年前後を戦後の全盛期とし、芸者は 600 人いたと書いています。都鳥が浅草で店を開いたのも、同じ 1950 年です。

本浅原須美『お座敷遊び』(光文社新書・2003)

041969 年の浅草には、芸者衆が約 140 人いたとされる

この頃の数は、話す人や数え方によって違いがあります。

三代目は、浅草見番に残る当時の資料によれば、女将が 15 歳の半玉として芸者デビューした 1969 年(昭和 44 年)、お茶屋・料亭は 80 軒以上、芸者衆は約 140 人だったとされる、と話しています。

浅草見番で箱屋(はこや)として働いた慶さんからも、この頃の浅草の話を聞いています。箱屋は、芸者衆の三味線を運び、着付けや取り次ぎをする人です。数は人や数え方によって違いがあり、確かめを続けています。

1969 年ごろの芸者衆と店の数は、記録によって違いがあります。確かめが済んだら、ここに書き足します。

証言三代目 河村悠太証言慶さん(元箱屋・東京浅草組合 元事務長)

05昭和 40 年代、浅草の芸者衆はとても忙しかった

夏もお座敷が続き、一人前の芸者は人力車で出先を回りました。

本によると、昭和 39 年(1964)の東京オリンピックの頃まで、花柳界の夏は暇な季節でした。昭和 40 年代に料亭にエアコンが入りはじめると、夏もお客様が来るようになりました。芸者衆が出払う日が続き、見番では帳場の板に「大入」ではなく「大出叶」と書いたそうです。

昭和 40 年代までは、花街の中に俥屋(人力車の店)が 2 軒ありました。一人前の芸者は、出先から次の出先へ人力車で移り、歩かないことを誇りにしていたと本は書いています。

三代目は、女将がデビューした頃は、数のうえでは昔より減っていても、「黄金時代」と呼ばれるほど芸者衆が忙しかったと話しています。

本浅原須美『お座敷遊び』(光文社新書・2003)証言三代目 河村悠太

02浅草ならではのもの

06正式に登録された幇間がいるのは、浅草だけ

浅草見番には今、6 名の幇間が登録しています。

幇間(ほうかん)は、芸者衆を引き立て、お座敷を盛り上げる芸人です。正式に登録された幇間がいるのは、今は浅草の見番だけです。浅草見番には今、6 名の幇間が登録しています。

本は、2003 年ごろの浅草の登録芸妓を 60 名とし、そのうち幇間は 4 名と書いています。今は 6 名に増えました。幇間は長く「日本で唯一の男性芸者」と言われてきましたが、今は女性の幇間もいて、新しい風になっています。

金屏風の前で、そろって片足を上げて踊る幇間衆 5 人。
浅草の幇間衆(舞台)。
証言三代目 河村悠太本浅原須美『お座敷遊び』(光文社新書・2003)

07浅草で待合の形を残す店は、今は都鳥だけ

昔の浅草は、待合茶屋が料亭よりずっと多い町でした。

待合茶屋(まちあいぢゃや)は、芸者衆を呼んでお座敷遊びをする店です。料理を出す料亭とは別の店として、浅草の花街を支えてきました。関東大震災の前には、待合茶屋が料亭の 5 倍ほどありました(記録-02)。

三代目は、今の東京の花街では数が逆になり、料亭のほうがずっと多いと話しています。浅草で今、待合茶屋として営んでいるのは都鳥だけです。

証言三代目 河村悠太本浅原須美『お座敷遊び』(光文社新書・2003)

08浅草の芸者衆は、町の人と近い

本は「花柳界あっての浅草、浅草あっての花柳界」と書いています。

本は、浅草の芸者衆が地元の人ととても近いと書いています。子どもの頃から芸者衆を間近に見て育った人や、幼なじみが今は立派なお姐さんという人も多いそうです。商店の奥さんと芸者衆の付き合いも、昔から育ってきました。

新しい芸者のお披露目があれば、すぐに町じゅうに話が広まります。お姐さんの踊りの会には、近所の人が差し入れを相談します。本はこの近さを「花柳界あっての浅草」「浅草あっての花柳界」という言葉で表しています。

著者は 2003 年の時点で、浅草を「もっとも開かれた花柳界」と見ていました。町と組合が一緒になって、芸者衆と一般の人が触れ合える行事を設けてきたからだといいます。

本の記述は、2003 年ごろの浅草の姿です。

本浅原須美『お座敷遊び』(光文社新書・2003)

03今の浅草と受け継ぐ人

09今の浅草の芸者衆は約 20 名。芸者衆と過ごせる店は都鳥を入れて 2 軒

数はずっと少なくなりましたが、お座敷は今も続いています。

三代目は、今の浅草の芸者衆は約 20 名だと話しています。芸者衆と過ごせる店は、2026 年 8 月の時点で都鳥を入れて 2 軒です。料亭で芸者衆と遊べるのが 1 軒、そこに待合茶屋の都鳥を合わせた数です。

2015 年の新聞の調べでは、浅草の芸者は 26 人でした。約 100 年前の約 300 軒、千人を超える芸者と比べると、ずっと少なくなりました。それでも浅草の芸者衆は、今もお座敷に出て芸を見せています。

証言三代目 河村悠太資料読売新聞(2015年12月17日)

10町の行事に出る芸者衆と、新しく芸者になる人

芸者になる人は、今も見習いから始めます。

三代目によると、今の浅草の芸者衆は、除夜の鐘、ほおずき会、新春の歌舞伎の総見などに出ています。三社祭では、芸者衆が組に分かれて回り、幇間の組もあります。

芸者になる人は、今も見習いとして半年から 1 年ほど修行し、そのあと半玉か一本として芸者デビューします。幇間にも女性のなり手が加わりました。浅草の花街は、こうして新しく入る人に受け継がれています。

証言三代目 河村悠太

このページの用語

花街(かがい)
芸者衆が活動する町。浅草の芸者衆や女将は「かがい」と読む。
花柳界(かりゅうかい)
芸者衆と、そのまわりの世界全体。
観音裏(かんのんうら)
浅草寺の観音堂の裏手。浅草の花街がある辺り。明治の末に浅草公園から移った。
見番(けんばん)
芸者衆が登録する花街の組合の事務所。浅草では東京浅草組合。
料亭(りょうてい)
料理を出し、芸者衆を呼んで宴を開く店。
待合茶屋(まちあいぢゃや)
芸者衆を呼んでお座敷遊びをする店。昔の浅草では料亭よりずっと多かった。
箱屋(はこや)
芸者衆の三味線を運び、着付けや取り次ぎをする人。見番で働く。
俥屋(くるまや)
人力車の店。昭和 40 年代まで、浅草の花街の中に 2 軒あった。
幇間(ほうかん)
芸者衆を引き立て、お座敷を盛り上げる芸人。正式に登録された幇間がいるのは浅草だけ。
見習い(みならい)
芸者になる前の修行の期間。半年から 1 年ほど。
半玉(はんぎょく)
修行中の若い芸者。振袖に花かんざしの装い。
一本(いっぽん)
一人前の芸者。半玉から何年かして一本に変わる。

このページの出典

  • 証言:三代目 河村悠太(都鳥・2026年6〜10月)
  • 証言:慶さん(元箱屋・東京浅草組合 元事務長)取材の映像(2026年5月 受領)
  • 本:浅原須美『お座敷遊び 浅草花街 芸者の粋をどう愉しむか』光文社新書、2003
  • 本:岩下尚史『花柳界の記憶 芸者論』文春文庫、2009
  • 資料:読売新聞(2015年12月17日)

今も受け継ぐ人がいる花街

浅草の料亭やお茶屋は、約 100 年前の約 300 軒から、今は芸者衆と過ごせる店が都鳥を入れて 2 軒になりました。芸者衆も約 20 名です。それでも浅草は、震災と戦争のあとにも立ち直ってきた花街です。今も見習いから芸者になる人がいて、幇間には女性のなり手も加わりました。お座敷に来てくださるお客様が、この芸を次へつなぐ支えになります。

更新の記録 2026-10-24 10 項目で公開

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