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浅草の芸者文化:花柳界の歴史Q&A【都鳥】

浅草の芸者文化:花柳界の歴史Q&A【都鳥】

浅草の芸者文化:花柳界の歴史Q&A

最終更新日:2025-09-27花柳界の知識Q&A▶遊び方・マナーQ&A

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芸者は、日本人にとっても未知の部分が多い世界だと言われています。本記事(歴史・文化編)では、花柳界の歴史や用語を、年代の目安とともにQ&A形式でまとめています。

Q. 芸者(げいしゃ)とは何ですか?

踊り・唄・三味線などの芸と接遇を担う芸能者です。お客様とのこ゚宴席を芸でもてなす存在です。
出典:東京花柳界情報舎

Q. 芸者と遊女(ゆうじょ)は何が違いますか?

芸者=芸を提供する遊女=性を提供すると区別されていました。江戸後期には「色を売らない芸者」が制度面でも位置づけられていたとされています。混同は歴史的背景によるものと言われています。
出典:東京花柳界情報舎

Q. なぜ両者が混同されやすいのですか?

遊郭の宴席で芸者が芸を披露するなど同じ宴席が仕事場となっていたためと言われています。江戸では見番(組合)が装束・所作のルールを整え、区別を可視化していたとされています。
出典:東京花柳界情報舎

Q. 江戸初期〜中期、芸者の始まりはいつ頃ですか?

江戸時代に男芸者の活動が各地で見られ始め、のちに女芸者が主流になっていったと言われています。
出典:東京花柳界情報舎

Q. 江戸時代、どのように花街が広がりましたか?

吉原(公認の遊郭)に関わる芸者のほか、深川柳橋、町場の町芸者などへ広がっていったとされています。明暦の大火(1657年)以後の都市再編も背景にあったと言われています。
出典:東京花柳界情報舎

Q. 見番(けんばん)はいつ頃どんな役割を持ちましたか?

江戸期に置屋・料亭との取次や登録管理、稽古統括を担う事務所として整っていったと言われています。見番の規律が芸(芸者)と色(遊女)の分化を明確にしたとされています。
出典:東京花柳界情報舎

Q. 服装や髪型の違いは区別に関係しましたか?

花柳界によって帯の位置や結び方、髪型などに差が設けられ、識別の目安になっていたと言われています。地域や時期で例外も見られたとされています。
出典:東京花柳界情報舎・道成寺(用語集)

Q. 明治期にはどのような発展がありましたか?

1872年(明治5年)の芸娼妓解放令により年季奉公(特定の年数の間、無給で働く契約を結ぶ労働形態)が廃止されたとされています。以後、届出・鑑札の仕組みが整い、花街が各地へ制度的に広がったと説明されています。
出典:東京花柳界情報舎

Q. 大正〜昭和初期、舞台公演はどう発展しましたか?

大正期に新橋演舞場が開場したとされ、毎年の「東をどり」など大規模公演が根づいたと伝えられています。稽古体系が高度化した時期と言われています。
出典:東京花柳界情報舎

Q. 戦時期〜終戦直後はどのような影響がありましたか?

昭和14年ごろからの深夜営業規制や戦時統制により、花街は大きな制約を受け、戦後は見番・置屋・料亭が連携し、復興の歩みが進んだとされています。
出典:東京花柳界情報舎

Q. 浅草花柳界は戦後どのように復興しましたか?

1946年ごろに三業組合の再編が行われ、1950年に「浅茅会」が始まり、のちに「浅草おどり」へ発展しました(台東区の後援が挙げられています)。現在も見番の主導で行事が続けられています。
出典:浅草見番

Q. 昭和後期〜平成、花街はどのように変化しましたか?

レジャーの多様化や社会制度の変化により、規模は縮小傾向にあったと言われています。一方で、地域行事や公演を通じた継承が進められてきたとされています。
出典:東京花柳界情報舎

Q. 現在の東京で主に挙げられる花街はどこですか?

赤坂・浅草・大塚・神楽坂・大井町・新橋・八王子・円山町・向島・芳町などが紹介されることが多いです。実情は各見番の最新案内をご確認ください。
出典:東京花柳界情報舎

Q. 幇間(ほうかん/たいこ持ち)は残っていますか?

浅草花柳界にのみ在籍・文化が現存しています。幇間は場を円滑に盛り上げ、芸者とお客様を繋ぐなど、宴席がより円滑に盛り上がるための重要な立ち位置で、幇間衆も芸者衆と同様に日々稽古に通い、芸を磨いています。
出典:浅草見番(公式名簿)

参考リンク(読みもの)

花柳界の知識Q&A ▶遊び方・マナーQ&A

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